Meissen(マイセン)

マイセンについて

マイセンの歴史と釜印の遍歴

1709
ザクセンの国王アウグスト2世の命によって長い間研究を続けてきた、ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーにより、白磁の作成が可能になる。
1720
アウグスト1世のモノグラム。君主が使用する磁器のマークとして用いられました。
アウグスト強王の没後もしばしば用いられていますが、20世紀になってからは、製作年を書き加えることによりオリジナルとの混乱を避けています。
1731
交差する双剣は、シュタインブリュックの提案により、ザクセン選帝候の紋章からこの形のままで取り出され、1723年以降、一つの商標として用いられるようになり1731年から63年には、つねにこの窯印が描かれるようになりました。
1756
ザクセンは七年戦争に巻き込まれ、プロイセン軍がザクセン領内に進攻して首都ドレスデンを占領した。ザクセン軍はピルナ包囲戦でプロイセン軍に完敗して降伏した。
1756年以後、とくに1763年から74年には恒常的に、二本の剣の鍔の間に意味の不明な小さな点が一つ表現されるようになりました。剣の形もまた、すでにかなり変化をみせています。
1763
フベルトゥスブルク条約により、ザクセンはようやく独立を取り戻す。
1774
双剣の柄の間に描かれた小さな星形は、マルコリーニが工場長を勤めていた時代の製品であることを示すもので、1774年から1815年まで用いられました。
1815
〈マルコリーニの星〉の廃止後、1820年まで、柄の間には数字のIが描かれ、その後どのくらいの期間かはっきりしませんが、IIも用いられています。
1820
以後、双剣の窯印には何も加えられることなく、描き続けられました。わずかに緩やかな弧を描いた刃は、比較的高い位置で交差し、それが下方の柄頭を引き立たせています。剣はこの形のまま1924年まで変化しません。
1924
マックス・アドルフ・ファイファーの経営による時代。
剣は優雅に湾曲して柄頭は描かれなくなり、剣先の中間に小さな点が描かれるようになりました。この窯印は1924年から1933年まで用いられました。
1933
1933年から45年まで、双剣の窯印はほぼ一定した形で描かれています。
1945
第二次世界大戦の終結から1947年までの短期間、上方が開いた弓形が双剣の下に描かれました。
1947
今日、双剣の窯印には何も書き加えられていません。刃の交差する位置は比較的中央で、鍔は刃と反対方向にほぼ同様の弧を描いています。
1957-85(旧東ドイツ時代)のものには、マークの横に小さな線が入っています。
1972
この窯印は1972年以後の特別な製品に描かれています。また、すべての印刷物にも国立マイセン磁器製作所のシンボルとして入れられています。