Meissen(マイセン)

マイセンについて

マイセンを支えた人々

アウグスト強王(アウグスト2世 [ポーランド王])
ポーランド・リトアニア共和国の国王、及びザクセン選帝侯。
ザクセン選帝国の首都ドレスデンを主要な文化的中心地に変え、ヨーロッパ中から芸術家や音楽家を宮廷に招聘した。一方、政治家としての力量に関しては、ポーランドにおいて高くは評価されていません。
ベットガー(錬金術師:ヨハン・フリードリッヒ・ベットガー)
ベットガーはプロシア王フリードリッヒから金を作り出すことを命じられましたが、成功しなかったため逃亡。1701年ザクセンのアウグスト強王のもとにやってきました。強王に金の変性を命じられましたが、金はできず投獄されます。1703年に一度逃亡しますがつかまり、シュリンハウスとともに陶磁器の開発に携わることとなります。
1710年に磁器工房設立の布告がなされますが、幽閉が解かれることなく酒に溺れて37歳の若さで他界します。
シュリンハウス伯爵(数学者・自然科学者。ベットガーの監査官:エーレンフリート・フォン・シュリンハウス)
カタカナ表記では、チルンハウス伯爵ともいわれます。300年ザクセンに根付いたザクセンガラスの生みの親といわれています。多才な知識でベットガーへのアドバイスをしたことでしょう。シュリンハウスがいなければ、マイセンの陶器は誕生しなかったとさえいわれています。
ミッシェル・ヴェクトール・アシエ
造形家。ケンドラー没(1775年)後、モデルマイスターとして後継者になる。新しい時代の好みのもの(新古典主義的なルイ16世様式の作風)を作り上げ、1780年に退社するまでに200体の人形や群像を作り上げた。
ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー
彫塑家。宮廷彫刻家のベンジャミン・トマエ氏の弟子。
1731年アウグスト強王のご指名でマイセン製作所のモデラー(原型製作者)として採用され、バロック様式、ロココ様式にも精通した。強王死後のスポンサーである貴族たちから、賞賛を浴びた天才彫塑家。
ハインリッヒ・フォン・ブリュール伯爵
1733年にマイセンの最高責任者に就任。ズルコフスキー伯爵と共に製作所の事実上の権力者でパトロン役となる。
ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト
宮廷画家、絵付師、科学者。虹の7色を含む多くの磁器用絵具を完成させた。絵付け部門の指導者であり、磁器製作秘密保持者。
マイセン製作所にとって磁器の上薬(ガラス質の上)の表面に使うことが出来る絵の具を幅広く発展させた功績は非常に重要で、この絵の具は今日でも製造し使用されています。また、絵付けでもシノワズリー(中国趣味)なども有名。
ユリウス・コンラート・ヘンチェル
彫塑家。当時の芸術様式アールヌーボー(独ユーゲントシュテール)らしい柔らかな作品を兄のルドルフ ヘンチェルと協力して、ディナーセットや彫塑を残してます。中でもヘンチェルの子供の人形は現在でも愛好家から大変人気があります。
パウル・ショイリッヒ
造形家。ベルリンの芸術アカデミーで彫塑とグラフィックアート学び、特徴はほっそりとした控えめながら官能的作品が多く、休む人/扇を持った婦人/誘拐/婦人と鹿/アマゾーネ/キューピットの作品群で1937年、パリ万博で大賞を受賞。
ユリウス・エデュアルド・ブラウンズドルフ
1862年から1906年マイセンの花専門の絵付け師として働く。マイセンでは様式的な「伝統ある花絵」が主流でしたが、彼は自然をあるがままに写そうとする「自然主義的花絵」を考案し19世紀終わりには、これをさらに推し進めた「印象主義的花絵」を完成させました。
ハインツ・ヴェルナー
絵付師、パターンデザイナー。現代マイセンを代表する作品を次々と発表。
プラークと呼ばれる壁面装飾を復活させたのも大きな功績のひとつ。
ルードヴィッヒ・ツェプナー
造形師。マイセンの器型デザインを手がけた。
花や動物、風景のデッサンの中から20世紀後半で最も成功したシェイプと言われる「グローサーアウスシュニット」を生み出した。また、インドを訪れ、旅先で見た建物などをヒントに「グローサーアウスシュニットレリーフ」を完成させた。
ペーター・シュトラング
彫塑家(盛りつけて形を作る技法を彫塑と呼びます)
現代マイセンの偉大な造形家で温かい人柄とその作品は多くのファンをもち、(オベロン)(三文オペラ)など、文学作品をテーマにした作品を好み、イソップ物語、グリム童話、シェイクスピア、など古今さまざまな文学や音楽、サーカスも得意分野です。